4 遅れて来た枝垂桜
桜の季節になると、庭に枝垂桜が咲いたから見よ、と、きっと家人が言う。
ならばと庭に降りて、雑然としたその広がりを眺め渡してみるが、花は2、3あるものの、枝垂桜と思しき代物は発見できずにしまった。
桜の盛りは過ぎて、青葉の頃である。
その年家人と懇意になった庭師が、初めてこの庭を整えてくれることとなった。
ところへ、野放図に枝を伸ばした一本を見上げて、これでは枝垂桜ではないね、という。
いかにも枝垂桜であろうはずがない風貌の一本である。
桜といえばソメイヨシノ一辺倒の一般庶民の感覚からすれば、桜の落ち武者、はたまた桜の成れの果て、雑木と言われても仕方ないね、という残念な有りさまなのである。
そう思って見てみれば、木のウエストラインとも言うべきあたりから、申し訳程度に枝垂れている。
素質はあったのだが、チャンスがなかったのだと言わんばかりである。
なるほど、これは枝垂桜に成りそこなった何かに違いない。
庭師はすかさず鋸を取り出し、勢いよく空に向かって伸びた枝を手際よく刈っていく。
そうしているうちに、もはや枝ではなく幹と言える肝要な部分にさえも容赦なく鋸をあててしまった。
要するに、ウエストラインと思しきあたりから上はすべて刈り取られてしまった恰好である。
そうして初めて、これは枝垂桜かも知れないね、と言える何かが出現した。
作業は圧巻だったが、少々心配になった。
桜の要とも言うべき幹を切り取られてしまって、うまい具合に、枝垂れた側に全神経が向かっていくものだろうか。
胴体が切り取られてしまえば、それは生きていないのと同じではないか。
人間もそうだろうか、と考えて、慌てて首を振る。
そんなことは1ミリだって想像したくない。
ただ何かがなくなっても、それを補う別の何かが発達して、たくましく生きている例はいくらでもある、と思うばかりである。
雑木から枝垂桜に格上げされた木は、何事もなかったかのように青々と枝葉を伸ばしている。
内部事情は伺い知れないけれど、変化を受け入れて、枝垂桜として生きていくことを決意したものだろうか。
春が待たれる。
2022.3.7 交野左絵